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世界が「火曜の朝の目覚め」なら?

 

ひと昔まえではあるが、2012年に「日本のヤンキー化」現象を提唱していた精神分析学者がいる。斎藤環氏による2冊『ヤンキー化する日本』(角川oneテーマ21, 2014)『世界が土曜の夜の夢なら』(角川文庫, 2015)は当時それなりに読まれ、話題となった。それだけでなく『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(原田曜平, 幻冬舎新書, 2014)や『ヤンキー進化論』(難波功士, 光文社新書, 2009)も

本書は本講義の課題図書となっているので、生徒諸君はもちろん予習済みだと思うが、万が一まだ読んでいないようなら中間試験までには入手しておくこと。

内容は原著に譲るとして、ようするに当時の日本では「不良は減っているのに、一般人の中でのヤンキー的バッドセンスの共有度は高まって」いたのである。

 

時は過ぎて2020年。令和2年のいま、日本人の精神性はどのように描きうるだろうか?

 

…斎藤先生に断りもせずに、そんな壮大なテーマを「世界が “火曜の朝の目覚め” なら?」と掲げて語り始めてしまった。うーん、伏線回収できる自信はない w


日本のオタクとヤンキー、そしてギャル。

本書において斎藤氏が指摘しているが、日本においては精神論として【オタク→ヤンキー】の順番に注目されてきた。

 

まず「オタク」は、漫画やアニメ、ゲームなどのサブカルチャーに傾倒し、当時は『電車男』や『新世紀 エヴァンゲリオン』などで盛んに描かれた。

彼らの特徴として「いまここ」の現実を相対化しつつも、その想像力が趣味の範囲に留まっているという点が言われる。特定の領域に関するマニアックな情報収集や研究に勤しみ、ひとやモノ、景色のフェティッシュなまでの描き方に興奮する様は、まさに空間的・時間的な超現実のような世界観に対する妄想力を示すところである。

しかし「オタク」はその飛躍を自らの興味関心が及ぶ特定領域内に留めて、あくまで普遍性を志向しない。

 

つづいて「ヤンキー」だが、彼らもオタク同様に「いまここ」を相対化する傾向がみられる。

それは彼らの「バッドセンス」(古くは「つっぱり」)へのこだわりに見出せる。ヤンキーは、例えば物語におけるヤンキー的なキャラクターが担うような、現状への不満を相対化し、カリスマ性をもって「いまここ」ではないどこかへと道を切り開いていってくれそうという期待を抱かせる。

 

小泉純一郎や橋下徹、最近だとトランプも「ヤンキー」ではないだろうか。

 

こうした「ヤンキー」の現実を相対化するチカラは、その「反知性主義」と「換喩性」に依るものと考えられる。

ヤンキーには「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」というモットーがあり、本質的で理性的な意思決定や行動より、むしろ「気合い」を重視した「心でっかち」になる傾向がある。これが、彼らなら現実を打破できるのではないかと周囲に期待させるようなヤンキーのもつ印象に繋がっている。

斎藤氏も「ヤンキー文化には、『本質』や『起源』と呼べるものがない。その本質なるものがありうるとしても、それは中心ではなく周縁に、内容ではなく形式に、深層ではなく表層にしか宿り得ないからだ。」と述べ、彼らの反知性主義はその虚構性すなわち換喩性と結びついているとする。

 

しかし彼らもまたオタク同様に「いまここ」を完全に相対化することには得てして挫折する。それは彼らのもつもうひとつの性格である「家族主義」的で保守的な「女性性」に依るものである。

 

彼らには、自らに紐づいた歴史や土地、仲間そして家族を大切にする特徴があるということは想像に難くないだろう。まさに古事記はスサノオノミコトの時代から、ヤンキーは多少やんちゃして周囲を困らせることがあっても、結局はドメスティックかつネイバーフッドな関係性を重視し、それによって現実の相対化に失敗するのである。このように伝統的なものに絡めとられている保守性もまた、ヤンキーの特徴なのである。

 

こうして、オタクもヤンキーも現実を相対化する傾向にありつつも、それに挫折している。そのことは、前者が「土曜の夜の夢」をみており、後者は「月曜の朝の憂鬱と希望」をみている、と喩えられる。長くなったが、このように日本で【オタク→ヤンキー】と注目されたことには、いつまでも変わらぬ現状に対して積もり積もった不満をなんとか打破してくれまいかという「希望」が背景にあり、とはいえそれは保守性とも背中合わせであるという「憂鬱」を孕んでもいるのである。



ギャルは現実主義的ゆえ、自他の関係においてリアルな矛盾を抱える

ちなみに斎藤氏は同書においてギャルにも少し言及しており、ギャルはヤンキーと対置され「アゲ」を重視する傾向をもつとして描かれる。ヤンキー文化に隣接して生まれたのがギャル文化であり「ヤンキー → チーマー → ギャル」という系譜が観察されるという。しかし残念ながらギャルに対する詳細な精神分析は行われていない。

ここでは平成を席巻したオタク・ヤンキーたちと比較して「ギャル」の精神はいったいどのように分析されるか、素人ながら考察してみたい。

 

(ヤンキー, チーマー, ギャル, オタクが勢ぞろいするドラマ『池袋ウェストゲートパーク』通称「IWGP」)

まずオタク・ヤンキーの共通点であった「夢」すなわち現実の相対化と挫折であるが、これに関して「ギャル」はむしろ「目覚め」ていると言えるほどに現実主義的であるように思われる。

 

前記事でも述べた通り「ギャル」は自分のこだわりと他者との関係性を重要視する。このとき採用される自己認知は極めて客観的でリアリティがある。ギャルモデルの「みちょぱ」氏が語るように、ギャルは己が例えば座学で優位でなくとも率直にそれを受け容れ、むしろ他者へのリスペクトの気持ちに接続している。これはオタク・ヤンキーのようにメタレベルの認知が欠如している精神性とは大きくことなる点である。「ギャル」たちは根拠のない気合いで自らに喝をいれることはしないし、場当たり的にフェイクに身を委ねることもない。等身大の自分のもつこだわりを貫くこと、これが「ギャル」は「夢」をみず「目覚め」ている、と主張した理由である。

一方で「ギャル」もまた矛盾性を孕んでいることに変わりはないと考える。ただしそれは現実と虚構ではなく、自己と他者である。「ギャル」たちが己の価値観や主義主張を大切にするほどに、それは他者との関係性を構築・維持することをしばしば困難にする。

 

クラスメイトに日サロでよく焼けた染め髪パーマに長い付け爪の子がいたら、積極的に話しかけようとはしないひとが少なくないし、

ホームグラウンドである渋谷を歩いていても、かつてのギャル第1世代の全盛期を知らないイマドキの若い子たちはなにか天然記念物でもみるかのような訝しげな目線を送るし、今やその姿に興奮してくれるのはむしろ外国人くらいである。

 

また見た目だけでなく、好き嫌いをはっきりと伝えるギャルはだからこそ他者との関係性とのギャップに板挟みになる。これはやはり血を分けた存在であるヤンキーから受け継いだか、やはり歴史や土地、仲間そして家族を大切にする「ギャル」たちは、トレンドや渋谷、様々なクラブハウス、イベサーの仲間、そして家族を大切にしている。

 

「みちょぱ」氏は「ギャルは親を大切にする!」と断言しているし、また「モテようと思ったらギャルはやっていない」と言うように、異性へ媚びを売るつもりがないことを主張するが、そのような意識が芽生えている時点で自他の関係性に敏感であるということは十分に示される。くわえて下記の記事で、ギャル雑誌としてその名を馳せた『egg』のオンライン版での復活後の編集長をつとめる赤萩さんも、ギャルの要件である「ギャル魂」の一つの要素として「仲間を大事にする」ことを挙げている。

ようするに、彼女たちは大変現実主義的な性格であり「目覚めて」いるがゆえに、自他の矛盾性に対して敏感で、ときに葛藤している。これが果たしてオタク・ヤンキーのときのアナロジーのように、結局は他者や社会に揉まれて自己のこだわりにおいて一定程度の挫折を経験することになるのか、はたまた違う方向性に向かうのか、それは今後の「ギャル」たち次第であろう。

しかし今のご時世、この課題の山積みな現状が、オタク特有の妄想で逃避できるわけでも、ヤンキーのカリスマ性に頼って劇的に改善されるわけでもないことは皆が薄々きづいているところであろう。加えてVUCAと呼ばれる複雑かつ変化の速いなかで、我々は信じられるものを失いつつある。そんなとき「芯がある」生き方をするギャルたちの姿は、憧れの眼差しでもって見つめられうるのではないだろうか。

 

彼女たちは自分の軸をしっかりと持ちつつ、それを現実的に周囲と擦り合わせていくという、まさにこの時代を生き抜くために重要なひとつのメソッドを体得している。そんな「ギャル」の精神が、これからの日本人像に重なってゆくことを願ってやまない。

 

 

さて、今回は課題図書の2冊からギャルをオタクやヤンキーと対比しつつ、精神分析的に考察・研究してみました。

あらためて、ギャルがいかにユニークな存在であるか、またその「マインド」のより深い部分に迫ることが出来た気もして、大変勉強になりました。

来週のゼミも楽しみだな~。あれ、確か来週は小テストがあるとか…??

 

ちゃんと過去記事を復習しますね! え、他の連載からも出題するかもなの??

ひえ~、みんな、来週までに、このゼミ以外の記事にも目を通しておいてくださいね!

 

ではでは~、アディオス!!!

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「白河の清きに魚もすみかねて、もとの濁りの田沼恋しき」

江戸時代中期、白河侯・松平定信による「寛政の改革」は民衆による強い反発を受けた。その厳しい財政改革が経済を停滞させ、文化も廃れさせたためだ。冒頭の狂歌は、むしろかつての、腐敗政治ではあったが生活も文化も豊かであった「田沼時代(老中・田沼意次の政治)」の華やかさが恋しいという民衆の本音を唄っている。

 

古くは『孔子物語』でも「水清ければ魚棲まず」と言われており。クリーンで整った環境はどうやら得てして無味乾燥としたものになってしまうものらしい。

 

(『木曽海道六十九次』より「日本橋」, 渓斎英泉, 1835-1837)

 

世界の “SHIBUYA” は、私の「渋谷」か?

 
 

ああ、そして私達の渋谷は、いつしか綺麗になりすぎてしまった。

 

気づけば109は憧れるほどまぶしく個性的なファッションのメッカから、「ちょうどいい」なんて耳障りのよろしいテーマを掲げるのデパートに堕ちてるし、セシルマクビーに至っては「ギャルは絶滅」と言って憚らない。

そして昨年にはついに我らがフォーエバー21までもが閉店してしまった。おま、「フォーエバー」じゃないのかよ。。。

 

(『「ギャルは絶滅」渋谷109のセシルが下したそ決断 一世を風靡したギャルブランドは今』, PRESIDENT Online, 2019)

それはやっぱり、誰より ”イチバン” に「ヤバい」ことが名誉だった時代から、周りからの “いいね” が「エモい」といわれるようになった価値観の変化が影響するのだろうし、

成熟してゆく日本社会を代表する国際都市として発展・発信すべきサガを背負う渋谷の都市開発とも連動しているのだろう。

 

 

「ダイバーシティとインクルージョン」と掲げているとはいえ、エッジの効いた個性たちのしっちゃかめっちゃかなカーニバル状態じゃあ、さすがに手に負えないもんな。

 

 「ヤバい」から「エモい」へ。言葉から浮かび上がる時代の変化

 

でも、そんな綺麗な「SHIBUYA」にどことなく寂しさを覚えて「もとの濁りの…」と昔が恋しくなることはないだろうか。

ここは私の好きな、あの「渋谷」なんだろうか? そうちょっぴり不安になることはないだろうか。

 

平成から令和へ、時代も人も街も目まぐるしく変化してきた。そんな諸行無常のうつしよのなかで、本メディアがフォーカスしたいのは「絶滅した」とされている「ギャル」達である。

 

 

 

「ギャル学ぜみなーる」のシラバス

 

本コラム「#ギャル学ぜみなーる」では、かつて渋谷を賑やかした「ギャル」に対する研究や考察を行いたい。

 

ちなみに筆者はギャルでもないし学者でもないただのド素人なので、

これから読者のみなさんとともにギャルについてともに学びを深め、

時には読者のみなさんからもご意見を頂戴し、

あわよくばバーチャル・ゼミナールのようなかたちで共に学びを深めたい。

あんまり叩かれたら泣いちゃうので優しく教えてくださいお願いしますなんでもしますから ()

 

なお本ゼミの目標としては、「ギャル」のもつユニークな眼差しから学べることを通して、平成/令和の時代背景や古今の渋谷の諸相、ひいては日本社会を見つめ直し、

 

これからの令和社会を生き抜くための「ギャルマインド」を獲得することができれば幸いと思っている。

 

本連載では、大学のゼミ・研究室よろしく、例えば下記のようなシラバスで進行することを予定している。

  • ギャルの文化人類学 ~ わたしから観た「ギャル」、ギャルから観た「わたし」 ~ 

  • ギャルの地域社会学 ~ 渋谷/地元のポリティクスとソーシャル・キャピタルの地域的蓄積 ~

  • ギャルの民俗誌研究 ~ 系譜学, 参与観察, インタビューそしてカルチュラル・スタディーズへ ~ 

  • ギャルの倫理学 ~ 国際正義論や現代の倫理的ジレンマをギャルはどう考えるか ~

  • ギャルの言語学 ~ 言語工学分析, 方言研究, そしてニックネームのつけ方 ~

  • ギャルの心理学・思考論 ~ いま注目すべきフレームワーク「ギャル・シンキング」とは?

 

上記は暫定的なものであるが、ようするにこれまで体系だって考察されてこなかった「ギャル」たちにアカデミズムのライトを当ててみたいと思っている。きっとその光の中で華麗なパラパラを踊ってくれることだろう。

 

 

 

 

では初回の今日は、イントロダクションから。

 

それでは、まずギャルの定義とはなんだろうか。

 

本講義ではゆとり世代ド真ん中の筆者による脱力系なんちゃってアカデミズムの方針に基づき、なんとのっけから「ウィキペディア」先生を参照してしまおう。

 

英語において若い女性を指す girl(ガール)の、アメリカ英語における俗語 gal(ギャル)に由来する外来語。

とりわけファッションやライフスタイルが突飛とみなされながらも、それらが同世代にある程度文化として共有されている若い女性たちを指す場合にも用いる。

ギャルという言葉は、1972年にラングラーよりGalsという女性用ジーンズが発売された時から広まった。また、東京においては1973年に渋谷PARCOが開店し、新宿に代わって渋谷が若者の街として流行の最先端を担うようになるという変化があった。当時、ギャルはニューファッションに身を包んだ女性を指していた。

Wikipediaより, 2020年2月26日閲覧)

 

もとは英単語に由来するが、その日英間の語感から想起される一般的なイメージはやや違うように感じる。

まったくの個人的な印象だが、海外の “GAL” はこんな感じ。

 

(左:『#GIRLBOSS(ガールボス) 万引きやゴミあさりをしていたギャルがたった8年で100億円企業を作り上げた話』,ソフィア・アモルーソ著, 阿部寿美代訳, 2015年, CCCメディアハウス / 右:映画『SEX AND THE CITY』より)

デキるキャリアウーマン的な? 私みたいな弱気な部下を、こってり育ててくれそうだ。

なんだかお金持ちで社会的なステータスも高そう。

一方の日本語の「ギャル」は、Google先生のキュレーションだとこんな感じ。

 

 

 

一部のモデルさんを除いて、基本的には若年女性層のファッション・スタイルのひとつとして位置づけられているようだ。

派手な見た目だけどバリキャリってよりは、普段からヤーシブで遊んでそーなイメージ。

 

ちなみにそのファッション類型は平成の上半期に一旦の確立をみていいらしい。下記サイトでわかりやすく(そしてかわいいイラスト付きで!)丁寧に紹介されている。

 

(左「西海岸風の『LAギャル』」, 中央「コギャル」, 右「ヤマンバギャル」, 平成ファッション振り返り【平成元年〜11年】ギャルがブームを席巻♡』, lamire編集部, 2019

 

雑に要約するなら、安室奈美恵・浜崎あゆみ(そして益若つばさ世代へ)とスター達がシーンを牽引し、『egg』や『S Cawaii!』、『小悪魔ageha』といった雑誌がブームの火を大きく育て、ガングロ・メイクの発明から着ぐるみを用いる「キグルミン」の登場、

そして女性に限らず「ギャル男」のパワーも加わって、様々なイベサー(イベントサークルの略)が日夜クラブやダンスパーティーの集客力でしのぎを削っていたという。

当時の様子を、なんとなくイメージしていただけただろうか。 

 

 

…そして、もう勘のいい読者の方ならお気づきかと思うが、

 

日本の「ギャル」にはどことなく「おふざけ」的な「若気の至り」感が付与されており、

敢えて言うならばあまり知性的でないような印象操作すら感じる。

そしてその特徴的な外見ばかりが注目されがちで、分類もあくまでそれに依るものとなっている。

なんならTwitterで検索すると、アダルトコンテンツの1カテゴリーとして性的に消費されてしまっている様子も観察できる。

 

はたして、これでいいのか??ギャルってそんな薄っぺらいもんなのか???

 

そんなはずがない。断じてない。ここは私の独断と偏見によって、絶対ない。ギャルにはもっと “”なにか”” ある。ここで諦めては学者魂が廃る。

若干の怒りと焦りで震えながら、もう少しディグってみると、なんとギャル本人が「ギャルってさ…」と語る投稿を見つけた。

 

 

(小悪魔agehaモデル 華さんのInstagramより)

 

 

 

 

「華が思うに、ギャルってさ 自分が思う”可愛い”を追求できてるのが ギャル。なんじゃないかな」

 

「 その人のセンス、「私は絶対コレ!」っていう”こだわり”だと思う!!

ギャルの価値観は人それぞれだから、自分がギャルって思えばギャルじゃない?

 

「その中でも群を抜いて”ハイセンスな人”が 皆んなの憧れや 流行りの中心になってきたよね」

 

 

ギャルの定義として外見的特徴を重視することなく、その精神性にこそギャルである本質を見出し、なにより他のギャルやひとびとをマージナライズしないように言葉遣いにも丁寧に気を配っている…! なんて…カッコいいんだ…ッ!

 

華さんだけではない。eggモデルのあやかさんも同様の発言をしている。

 

 

 

 

 ギャルの基準とは? ―もちろんメイクもそうだけど、ギャルって“生き方”のことだと思う。私の考えるギャルって、

貫くところは貫くし、芯があるイメージ。

 

あんまフワフワされたくない。ガツガツ行くのがギャル。

だからギャル同士ってぶつかることも多いんです。ギャルじゃない子は絶対裏でLINEとかでグチグチ言ってる。裏で言うのとか私は嫌なんで。

ギャルはそういうところがはっきりしている。

 

ずっと強い女性でいたいのかな。ーかっこいい女でいたい。かっこいい女の頂点でいたかった。ギャルの方が普通の清楚より強そうだし、かっこいい。

 

  

こちらでも、やはり自分の信念を貫き通す、芯のある “生き方” のことを「ギャル」と呼んでいます。

あやかさんはそのなかでも「強め」の部類で、ガツガツいく「かっこいい女」を目指してまだまだ成長していくとのこと。

 

まだ絶滅なんかして化石になっちゃあ、いねぇんだぜ。ギャル・イズ・ノット・デッド!!

 

言質はまだまだある。イマドキの若い子の間でも人気の「みちょぱ」さんは「見た目やファッションよりも、『ギャルってやっぱマインドなんです』」はっきり答えている。

 

 

 

ギャルは一般的に「チャラチャラしてる」、「勉強しないからバカ」、「ガサツで不潔」、

そして「礼儀がなっていない」といったネガティブなイメージを持たれがちだが、

 

その代わりに、頭の良い人や自分が知らない知識をもっている人に対して、

「マジ尊敬するんだけど!」などと素直にリスペクトの気持ちを表せるところがギャルの良さだ。

 

(それに)“本当の”ギャルは、同世代の子より礼儀がなってるんです!

 

モテようと思ったらギャルはやってない。

男性の要望に寄るのではなく、自分のやりたいこと、自分のしたいファッションは変えずに

“中身”で勝負してきた。

 

 

 

そしてどうやらそんな彼らの自己認知は、外野からもじわじわと認知されつつあるようだ。

その思想性や行動特性が評価され「ビジネスギャル」なんて言葉も爆誕している。

いい歳したオッサンも「ギャル」のマインドを評価しているらしい。この会社は「ギャル枠採用」でもしてるんじゃないのか?

 

 

 

 

ズバリ今日のポイントは!

 

イントロダクションの今回は、ギャルの歴史と定義について概観してみました。

ギャルは渋谷を中心に日本全体でブームとなりましたが、ファッションとしての外見もさることながら、その内面にこそ重要なものがありそうです。

 

後続の各ゼミでは、ギャル・カルチャーとして外面的特徴も汲み取りつつ、

その内面的な「ギャルマインド」とは一体どのようなものであるのか、様々な研究角度から考察してみたいと思います。

次の講義までに各自ちゃんと予習・復習しておきましょう!

 

それでは、また。

 

 

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